聖書のみことば
2023年1月
  1月1日 1月8日 1月15日 1月22日 1月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月29日主日礼拝音声

 偽メシアの誘惑(山へ逃れよ)
2023年1月第5主日礼拝 1月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第13章14〜23節

<14節>「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。<15節>屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。<16節>畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。<17節>それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。<18節>このことが冬に起こらないように、祈りなさい。<19節>それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。<20節>主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。<21節>そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。<22節>偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。<23節>だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

 ただ今、マルコによる福音書13章14節から23節までを、ご一緒にお聞きしました。
 14節に「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」とあります。 随分、異様な言葉が語られています。咄嗟に、ここに述べられていることが分かるでしょうか。主イエスが何をおっしゃろうとしているのか理解しかねると感じる方も多いのではないでしょうか。それ以前に、主イエスが本当にこのようなことをおっしゃったのだろうかと訝しく感じるという方もおられるかもしれません。ここに語られている言葉はどうも、これまで私たちがこのマルコによる福音書を通して聞いてきた主イエスの言葉とは、少し違っているようです。

 主イエスが人々を教えた教え方、その語り口については、4章33節34節に、「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」と言われていました。主イエスが人々を教えられた時には「たとえ」が用いられたのですが、主イエスのたとえ話には、その話の裏側に隠された意味があって、その意味を受け止める人と、上辺だけを受け止めて分かったつもりになる人とでは、理解に違いが生じるということがありました。しかし、深い意味までは汲み尽くさないとしても、少なくとも話の上辺では、多くの場合よく分かる身近なことが題材になって語られていました。
 それに比べますと、今日の箇所の言葉は、普段の主イエスの言葉とは随分違っているのではないでしょうか。「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つ」というのは、一体何のことを言っているのでしょうか。また、「­読者は悟れ」と主イエスがおっしゃるのも変です。主イエスは目の前にいる弟子たちに向かって、やがて訪れる困難な時のことを教えておられるのですが、その時すでに御自身のおっしゃったことが、やがて書かれた文章になって読者の目に留まることを予想しておられたのでしょうか。まさか、そんなはずはないでしょう。
 おそらく、この「読者は悟れ」という言葉は主イエスがおっしゃった言葉ではなく、マルコかあるいは他の人が書き加えた注釈かメモのような言葉ではないかと思われます。

 今日聞いている箇所に限っては、特に14節から20節の言葉は、もしかすると、主イエスが弟子たちを教えられたそのままの言葉ではなく、書き改められている可能性があります。主イエス御自身は、もっとはっきり分かる、あけすけなことをおっしゃったのかも知れません。けれども、その言葉を文字にして記録に残すという時には、書かれている内容が時代を超えて多くの人々の目に触れることになります。元々言葉を書き残すということは、それが後から人に読まれるために書き残すのです。そして文字の記録として残った言葉の中に、もしもあからさまに当時の体制や政権を非難する言葉が含まれていた場合には、その書かれた言葉が証拠とされて、大勢の人々が弾圧され、命を失う危険があります。そのような事態を避けるために、明からさまな言い方をしないで、語られたことの意味を別の言葉や別の時代の事柄に置き換えて、それとない言い方で表そうとする場合があるのです。
 そういう書き方がされていることで最も有名なのはヨハネの黙示録ですが、ヨハネの黙示録の中では、キリスト教会を迫害するローマ皇帝の権力が、古のバビロンの支配として描かれます。また、具体的に教会を襲った様々の迫害や、迫害を仕掛ける者たちが竜や大きな獣たちの姿として言い表されます。表面上は、大きな獣たちや竜、また古の王国バビロンの興亡を語る幻想的とも言えるような物語が書き綴られるのですが、実際には、初代のキリスト者たちが経験した厳しい迫害の出来事が語られているのです。そのように、言葉の表現を置き換えながら、それとない仕方で語りたい本当の事柄を伝えようとする表現方法を「黙示文学的表現」と言ったりします。
 「黙示」というのは、別に言えば「暗示」と言っても良いのです。物事や事柄をはっきりと周りに明示するのではなくて、明示することに差し障りがあるので、暗示的なイメージで物事を言い表します。それが黙示文学的な表現方法です。
 そして、今日の箇所にもそんなところがあります。主イエスが元々お語りになった言葉が文字に書き留められる際、主イエスのあからさまな言葉をそのままに記録するのではなく、書く人が知恵を使って、その時代の読者に、本来主イエスが語ろうとされたことの意味をイメージできるような別の時代の別の事柄に置き換えて記したのです。
 ですからここに、「読者は悟れ」という一言が挟まれています。「ここに記されている言葉は主イエスがおっしゃった元々の言葉とは違っているけれど、どうか想像力を働かせて、ここに記されている言葉のイメージから、本来の主イエスの教えの意味を汲み取って下さい」、そういう注釈の言葉として、「読者は悟れ」と記されています。

 ところで、ここに「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」と言われているのは、一体何のことでしょうか。この言葉を聞くと、当時のユダヤの人たちには、すぐに思い当たることがありました。
 それは、主イエスの時代からおよそ200年程前のことですが、その当時のユダヤは隣国であるシリアの支配を受けていました。そのシリアの王、アンティオコス・エピファネス王はエルサレム神殿に無理やりゼウスの像を持ち込み、ゼウスの祭壇を建てさせ、ユダヤの人々にその像を拝むことを強要しました。神殿の中にあった律法の巻物は焼き捨てられ、それに抵抗した人々は処罰され殺されたと記録されています。さらに律法に従って生活することも禁止となり、ユダヤでは新しく生まれてきた男の子に割礼を施すことが律法に従うことでしたが、その律法に従った人々の家では、赤ん坊が殺されたばかりではなく、その亡骸を首に掛けられ家族全員がなぶり殺しにされたという凄惨な記録も残されています。
 それがシリアのアンティオコス・エピファネス王のもとで起こったことですが、一方でこのアンティオコス・エピファネス王は、優れた政治手腕と容赦のない軍事力を背景に、力づくで、当時エジプトを支配していたプトレマイオス家を圧倒して衰退に追いやったということでも知られています。エジプトはあと僅かのところでその息の根を止められ、アンティオコス・エピファネス王が新しくエジプトの王になりそうだったのですが、その戦いの最終盤のところでユダヤで反乱が起こったため、アンティオコス・エピファネス王はエジプト攻略を完成できずにユダヤの反乱鎮圧に乗り出し、そして志半ばで世を去ったということが知られています。この時のユダヤの反乱はマカベヤ戦争です。旧約聖書と新約聖書の書かれた時代のちょうど中間に起こった戦争なので、聖書の中にその記録はありませんが、この戦争の顛末については、ユダヤはシリアの王と3代にわたって戦い続け、シリア王家の内紛もあって、遂にシリアから譲歩を引き出し、シリアがユダヤの宗主国であることを認める代わりに、ユダヤ人の信仰生活をシリア側が認めるという形で一応の終息となったのでした。
 ですから、「憎むべき破壊者」という言葉から当時のユダヤ人たちがすぐに連想したのは、エルサレム神殿に建てられたゼウス像でした。たかだか200年程前のことでしたので、人々の記憶に残っていました。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのは、神殿の境内にゼウス像が立つという、あってはならないことが起こったことを連想させる言葉でした。

 けれどもそうでありながら、しかしここで本当に言われていることは何かというと、200年前のことではなく、これからやがてキリスト教会に襲いかかる迫害のことが語られています。この後、主イエスが処刑される頃、またそれに続く時代には、ローマ皇帝の脅威がどんどんと強まり、遂にはゼウス像ではなくローマ皇帝の像が帝国内の各地に建てられ、その皇帝の像を拝むことが帝国内のすべての人々に強制的に命じられるということが起こるために、最初の頃のキリスト者たちは、皇帝の像を拝む皇帝礼拝、即ち偶像礼拝を強要されることになります。意識的にそれを拒絶する人々は、ローマの平和を守る神である皇帝を拝もうとしない不届きな輩として無神論者と呼ばれ、平和を脅かす存在とされ、焼き殺されたり、競技場に引き出されて猛獣と戦う見世物とされるということが実際に起こりました。
 そういう、やがてキリスト教会が遭遇する迫害のことがここには語られているのですが、しかしそれをそのまま、今のローマ皇帝を批判するような書き方で書いてしまうと、それ自体が迫害の口実になってしまうので、200年前の昔に起こった出来事を引き合いに出して、ぼやかした言い方で表しているのです。

 主イエスは、「真の神でないものを拝むように強制されるなら、その時、キリストの弟子であるあなた方は、ユダヤの平野ではなくて、山地の奥に逃げ込みなさい」と教えられます。「ユダヤの町で偶像礼拝が強要される」、そういう事態に巻き込まれないためです。
 そして逃げる時には、どんな未練も後に残してはならないことが教えられます。15節16節に「屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない」とあります。
 屋上にいれば下に降りないと避難できないと思いますが、当時のパレスチナ地方の家は、家の壁の外側に屋上へと昇るための外階段が設けられていました。ここに言われている「下に降りる」というのは、家財道具を気にして一階の部屋の中に入ることを言っています。屋上から降りて下の部屋に入り、これからの生活にあれが必要だ、これも持って行こうと考えているうちに、ローマの当局者と軍隊がやって来て、逃げ出せないように町が見張られてしまいます。そうなる前に、屋上にいる人は外階段を駆け降りたら一目散に山奥の人目につかない場所に落ち延びるようにと、勧められているのです。畑にいる人も上着を取りに家に帰ったところを囲まれてしまわないように、一目散に山に逃げるようにと教えられます。野良で働いている時には下着、即ちシャツ一枚で働きます。野良仕事には上着や晴れ着は必要ありません。屋上の人も野良の人も大急ぎで逃げなければ、命に関わる非常事態に直面することになるのですから、「命からがら逃げおおせるように」と主イエスは勧められるのです。

 けれども、不思議に思う方がいらっしゃるかも知れません。「憎むべき破壊者」、すなわちゼウス像がエルサレム神殿の境内に建てられるぐらいのことで、キリスト者は皆、住み慣れた家を離れなくてはならないのでしょうか。それはあまりにも大袈裟すぎるのではないでしょうか。たかが偶像一つ神殿に建つぐらいのことで、私たちは今の生活を捨てなくてはならないのでしょうか。主イエスは本当にそんなことをおっしゃったのでしょうか。
 しかしまず考慮に入れなくてはならないことは、この箇所は黙示文学的な表現がされているということです。即ち、聖書の宇面では「物を言わないゼウス像が建っていること」のようですが、これは実際には「ローマ皇帝への礼拝のこと」が問題になっています。そして、ローマ皇帝は決して物を言わない無力な像ではないので、ローマ皇帝を拝まない者は迫害を受けることになります。皇帝を拝むことは、税金を払ったり子どもたちに教育を受けさせたりするのと同じような国民の義務であるとされていますから、従わなければ処罰されます。まごついていると、「皇帝を拝むように。真の神を拝まないように」という力が働くようなことが起こるのです。
 ですからキリスト者たちは、「なりふり構わず、そこから逃げるように」と勧められます。実際、初代教会のキリスト者たちが経験した迫害には大変厳しいものがありました。信仰を生きようとして、多くのキリスト者の血が流れたのです。
主イエスは、その厳しい戦いに自分から進んで赴けとはおっしゃいません。大変厳しい戦いになることを御存知だからです。19節では「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである」と言われます。
 「天地創造の初めからこれまでなく、また、今後も決してない」とは、つまり空前絶後の厳しい苦難ということになりましょう。「信仰者が信仰生活を守り続けるために経験する戦いを決して甘く見てはならない」と主イエスはお考えです。それは非常に厳しい苦しい戦いになりますので、自分から好き好んでそこに赴いたりはしない方が良いのです。むしろ、信仰生活を生きる上で脅威となりそうな事柄や事情には予めアンテナを高くしておいて、「なるべく真の神を礼拝する生活から遠ざけられないように。自分の身を、神を礼拝して生きる生活の中に置けるように注意すること」、それが大切なのです。

 こういう聖書の言葉を聞きますと、今日の私たちの置かれている状況が、初代教会のキリスト者たちのように剣や槍で脅されることによって礼拝から遠ざけられてしまうようなことでないことは、本当に感謝すべきことです。けれども私たちも、剣や槍によってではないとしても、やはり私たちを礼拝から離れさせようとする力が働いたり、誘惑に襲われることがあるのではないでしょうか。
 たとえば感染症の流行によって礼拝生活から私たちを引き離そうとする力は、今日実際に私たちが経験することの中に働いているのではないでしょうか。あるいは、年をとって私たちの体から少しずつ力が失われる時、教会までの距離が今まで以上に遠く感じられることがあるのではないでしょうか。それもまた、私たちにとっては非常に深刻なものでしょう。あるいは若い方々であれば、日曜日のこの時間、礼拝の時に、教会の壁の外ではどんなに楽しく魅力的な時間が流れているだろうかということに興味をそそられてしまえば、神の前にやって来ることから逸らされてしまう誘惑があるのではないでしょうか。あるいは礼拝の場にいながら、別のことを考えてしまうということもあるかもしれません。今日ではそういう様々な事情が、剣や槍に代わって私たちを脅かしているのではないでしょうか。

 初代教会のキリスト者たちが迫害の前に抵抗できず無力であったように、今日の私たちも、自分に迫り来る誘惑や脅威のことを思うと不安になるかも知れません。「果たしてわたしは、こういう誘惑や脅威に抵抗できるのだろうか」と心配になる方もおられるかもしれません。誘惑や脅威を避けるためには、一体どうしたら良いのでしょうか。
 主イエスはここで、2つのことを勧めておられます。まずは、神を礼拝する生活を妨げそうなものや事柄に気づいたら、それを避けるように「逃げる」ことです。そして、もう一つは「祈る」ことです。18節に「これらのことが冬に起こらないように、祈りなさい」と言われます。
 礼拝から私たちを引き離すものがやって来たら、私たちは何を置いてもまず「逃げなくてはならない」と主イエスは教えられます。そうすると、それまで私たちが使ってきた物、家の中にある家財道具や上着は打ち捨てられることになります。けれども、それらは決して無意味だったり、価値が無いから置き去りにされるのではありません。それよりも、私たちが礼拝をささげることの方が中心のことなので、止むを得ずのことなのです。
 上着であれば、野良で働く時には不用ですが、寒い冬にはそれを着て暖をとる必要もあります。ですから、避難しなくてはならない事態がもし冬に起これば、夏よりも更に厳しい困難な状況に置かれることになります。それで、脅威や誘惑を避けるときに、それがあまりにも厳しいものにならないようにと、「神に祈ってよい」と主イエスは教えられました。それが、「これらのことが冬に起こらないように、祈りなさい」ということです。
 私たちは、自分の力で災いが起こる時期を定めることも、災いが起こらないようにすることもできません。しかし、神に祈り願って少しでも試練が軽くなるようにして頂くことはできるのです。
 神は祈りに耳を傾けて下さいます。冬の災いを夏に変えることもおできになりますし、御自身の民が辛い思いをする期間を縮めてくださることも、おできになるのです。もし神が、苦難や試練を最も厳しくされたならば、私たちは到底、神の民として最後まで歩んでいく力を持ちません。しかし神は、弱い私たちのために苦しみと試練の期間を縮めて下さいます。私たちが困難な状況に置かれるときにも、それでも信仰を失わず、最後まで神の御前に踏み留まることができるようにしてくださるのです。
 ですから主イエスは、「神に祈ってよい」ことを教えられました。

 主イエスは今日のところで、私たちに厳しい誘惑が臨むこと、そして私たちを神から逸らしてしまおうとする勢力が力をもって私たちを脅かすことがあり得ることを教えておられます。私たちは無力なので、そういう誘惑から避難することしかできないのですが、しかし神は、弱い私たちを顧みて何とかして御自身の民の一員として生き残れるようにと配慮し、すべてを整えてくださるのです。
 ですから私たちは祈って良いし、祈りがきっと聞かれることを主イエスは教えて下さいました。

 今日は、説教題を「偽メシアの誘惑」としましたが、そこまで触れることができませんでした。この箇所については、また改めて聞くことにしたいと思っています。祈りをささげましょう。

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